世界遺産シェーンブルグ宮殿 日本庭園 修復工事
1873年ウィーン万国博覧会に、日本政府が初めて参加。その時造られた日本庭園がシェーンブルグ宮殿で発掘しました。そこを整備し、新たにその両脇に日本庭園を新設しました。
1873年ウィーン万国博覧会に、日本政府が初めて参加。その時造られた日本庭園がシェーンブルグ宮殿で発掘しました。そこを整備し、新たにその両脇に日本庭園を新設しました。
万博当時の写真
発見当時の写真
整備、新設工事時の写真
新たに作られた日本庭園
復元された日本庭園
2009年発見修復された日本庭園の両側に、新たに日本庭園を作りました。この工事に対しシェーンブルグ宮殿から感謝状が送られました。
オーストラリア政府から明治政府に送られた博覧会出展感謝状
ジェーンブルグ宮殿から、
おらが園岩井敏に送られた感謝状
長野市制110周年記念として、毎年行ってきた20回分の景観賞の作品の中から、景観大賞を頂きました。この賞は、市民の方々からの人気投票で、最も優れていると言う評価を頂いた作品です。長野大通り沿いにあるNagano Odori Intelligent Plazaの一角を、長野市の周囲にある樹種で小さなオアシスにすることができました。
1993年から3年にわたり、台湾の山中に日本庭園を造りました。きっかけは、日本造園学会で出会った台湾人の設計者との出会い。日本庭園の設計図を見て、造園の基本を教える必要を感じました。 現地の地形、石、風倒木などの標高2000mの自然に溶け込む庭園を造るため、それから3年台湾に通い、造園指導をいたしました。日本に対し好感をもつ台湾の人々は、大変熱心に作業に当たっていただき、良いものができました。
景観 通景点の彫刻を池田満寿夫氏と設置。画竜点睛により造園工事完了。
300年前に作られた日本庭園。作者の意図を理解し、その意を汲んで修復した日本庭園です。
境内周辺 住宅地の雨水を「放生池」に集めビオトープ。日本庭園の伝統的な様式に従い、これを「放生池」とし、自然な水が育む生物多様性の池として完成しました。
築庭当時(100年前)にもどす改修工事。小さな修繕を行った部分を、綺麗に回復させ、白河砂敷き枯山水の日本庭園の格式を取り戻しました。特に庫裡と庭園の間にある犬走りと雨落の部分にこだわりました。日本庭園の様式に従い、四半敷きを行いました。
雨落溝の縁石は、御影蔓石縁石を使い、渡しにはかち割り錆び石を敷き込みました。主庭を引き立たせる犬走りと雨落ちは、羽織と袴に合わせ下駄を用意するように、バランスの取れた様式が大切です。また主庭起点に四方佛手水鉢を据え「輪廻転生」を表している。
長野市権堂の裏通りに「秋葉横町」があります。この横町の中心に「あきはの泉」を作りました。
この横町は、町民参加の町作りとして高く評価され、地域文化の高さ民度の高さが示されました。
長野駅前の横断陸橋の手すりに、パイプによる緑化を行いました。培養液が循環し、植えられた花はいつまでも元気に育っています。 植物は太陽の光を浴びて光合成を行い、根から養分を吸い上げます。それと同時に、太陽光パネルにも光が当たり電気が生まれます。その電気で培養液を循環させるポンプが動き始めるという仕組みを作りました。自然にできるだけダメージを与えない、環境緑化の一つの成功例です。
1985年(昭和60年)長野市北部で起こった大規模な地すべりによって、地附山の半分の森が消失しました。この緑を回復するために、周辺の森から拾い集めた広葉樹の種を育て、ポット苗として幼苗植栽を行いました。 今では、防災メモリアル地附山公園を囲む見事な森に育っています。特に秋の紅葉は、長野市内のあちこちから錦織りなす森を眺めることができます。 あと10年で、本当のふるさとの森が完成します。
選手村の食堂に日本庭園を作りました。信州の故郷をイメージする「わさび」を植えこみました。
スポンサーテントの中に「松」「竹」「梅」の日本庭園コーナーを作りました。